文科省前川前次官の告発。 論点その3: 問題の文書は「怪文書」か?

 さて、そもそもこの件が目を引いたのは、朝日新聞の記事の見出しの「総理のご意向」という部分であろう。そうした文言の記載がある文科省の文書があった、という点。誰しも直前までマスコミを賑わしていた森友事件のことを連想した筈である。この点、菅官房長官は定例記者会見で即切り捨てた。そんな(文書作成の)日付も名前も記載のないものは言って見れば怪文書のようなものだ、と。一方、M氏は、わたしは同じ文書を持っている、あれはレクの文書です、と。
 ここで「レク」という聞きなれない言葉が出てきたため、時々食事を共にするいわゆる高級官僚の地位にある友人に「レク」ってなんのことか聞いてみた。以下のような話であった。・・「レク」というのはレクチャーの略。役所の中で、案件の直接の担当部署が作成する。目的は上司の決済が必要な案件の場合、判断のためのポイントを簡潔に記載した文書を作成、決裁権限のある担当審議官ー次長ー局長ー次官、という具合に順番に説明に持って回る。もちろん判断の容易な案件は一々そのような文書は作成せず、口頭での説明で済まされるが、そうでない場合は、可否の判断に必要なポイントを漏れなく記載、特に政治家がからんでいるような場合は、事実を省略せず正確さに欠けないように細心の注意を払って作成する。
 これを聞いて、それなら民間でも普通に行われることであり、なるほどと思ったのだが、1点、何故その文書には、作成日や作成部署、担当者名などが記載されないのか?という疑問が湧いたので、その点も聞いた。・・自分達が作成する文書は、組織の業務に関連する場合、当然公文書(行政文書)として、情報公開請求の対象となる。だが役所というところは、この辺りの感覚は民間と違うと思うが、極力書かれたものは残したくない、という本能のようなものがある。どうしてかというと、万一それが公になった場合の影響を考えるから。特に政治家などがからむものは、国会などで徹底的に追及されるし。そのための一つの手段が、当該文書に、作成日時や部署名作成者名などを敢えて書かない、ということ。それであれば万一表に出た場合でも、位置づけが不明になるというかシラを切れる、というか・・。
 ・・・ということだそうである。驚いたといえば驚いた。民間とは正反対だから。民間企業であれば、各案件についていつ誰がどのようにからんだのか明確にしておく必要があるから、文書であれば、必ず作成日時、作成部署、担当者名は記載するのが常識である。この辺りは新人のときから叩き込まれる筈であるが、役所の場合はまるで違うわけだ。となると菅官房長官は、そんなものは怪文書だ、と言った訳だが、ここは逆にいえば正にそうした役所における文書作成の常識を逆手に取られたわけである。だが反対側から考えると、当該文書は正にそうした役所が作成する文書の特徴を備えている、ということになる。となると、結局問題はその中身である。
 M氏の説明の如く、これがレクのための文書である、ということであれば、そこに記載された内容は、正に機微に渡るものが書かれていることになる。そして、報道を見る限り、それはそうした機微に渡る内容が事細かに書かれており、役所内部の文書、レクのための文書だとしか思えない。ただ役所の友人が言うには、仮に総理が何か具体的に意向を示した案件でも、通常はそれを文字にすることはなく、口頭で補足説明をすることになるとのこと。ま、納得できる話ではある。
 では何故今回の文書に、わざわざ「総理のご意向」とか「官邸の最高レベル」とかいう文字が書かれたか?当然ここも友人に問うた。・・多分担当者或いは担当部署は、他省庁(今回だと内閣府)から総理の意向があった旨の説明を受けたんだろうが、そんなことはレアケースであり、上層部に決済を求めるにしても、とても口頭説明では持たない、というか、その総理の意向みたいなものについて、どこの誰がどういう言い方をしていたのか一言一句記載しないと、とても決済はもらえないと考えたんだろう、とのこと。ここも説明を聞けば、なるほどという話ではあった。
 そしてM氏は、同じものを保管している、というのだから、それらを総合すると間違いなく「本物」ということになる。ここで一つ疑問が湧いた。M氏はなんでそんな表に出ると大問題の文書を保管していたのか?普通は用が済めば破棄する筈。というか次官を辞めるときにそういうものは全てシュレッダーにかけるとかして残らないようにするんじゃないのか?という点。ここは週刊文春のインタビューでM氏は、「これは要注意だな、と感じたものについては、退官後も保管していました」と答えている。だがこれだけでは理解できない。補足説明を求めたいところだが敢えて推測すると、現役のときに最後まで抵抗できず忸怩たるものがある案件について、その時の正確な経緯を忘れないでおこう、何かのときに役に立つかもしれない、という具合に漠然と考えたのではないだろうか。繰り返すが、M氏の生まれ育ちを考慮すると、もし自分の身に何かあったらこれを表に出して大問題にしてやる、などどいう動機があったとは思えない。もしそうなら次官を退官した1月20日から4ヶ月というのはいかにも半端であろうし、特に意味のある、というか関連する事態が生じていた訳でもない。
 以上、「怪文書」か?という疑問については、そうではない、と考えてもよいと思う。


 

文科省前川前次官の告発。 論点その2: 何故、いまになって・・・?

 この件は、5月17日の「総理のご意向云々」という見出しの朝日新聞の報道が端緒である。そして当日の菅官房長官の否定発言、22日の読売新聞での前川氏の出会い系バー通いの記事、と続く。
そして、25日発売の週刊文春で150分に渡るというM氏本人のインタビュー記事が掲載され、同日の午後、報道各社に対するこれまた1時間半の記者会見が行われた、というのがこれまでの経緯である。
 朝日新聞週刊文春を読まない人も、この記者会見はテレビで大々的に報じられたことから広く知られるところとなり、事態は一気に広がりを持った。そして数多くの感想が生まれたわけだが、大方の真っ当なものは「どうもこの前川さんという人の言っていることは本当らしい。でも、もしそうなら何故現役のときに、そうした理不尽な動きを身をもって阻止しなかったんだろう?」ということのようである。
 確かにそうした疑問はごく自然に生じるが、この点、M氏は週刊文春のインタビュー記事の中で以下のように述懐している。「本来なら、筋が通らないと内閣府に主張し、真っ当な行政に戻す努力を最後まで行うべきだったと思います。・・・それができなかった、やらなかったことは、本当に忸怩だる思いです。力不足でした」。正直かつ率直な述懐であろう。
 サラリーマンとして禄を食む者、もしくは食んだ者は、多分誰しも経験があるのではないだろうか。
仕事上、自分の意向が叶えられないとき、ケースによってはぶち切れたくなることが。だがほとんどは思い留まる。根性がない、仕事への信念も持たないというような理由であれば論外だが、ある程度地位も上がり、自分の関わる仕事の範囲も量も増えてきたときであればどうであろうか?まずは、その他の案件への影響を考慮して、プッツンするのをぐっと我慢するのではないか?
であれば、次官であったM氏は、文科省の所管の案件全てを管掌、そして事務方のトップとして決済を行い責任も負う、という立場にあったわけで、言ってみればそうした我慢の働きやすい地位にあった訳だ。
敢えていえば、そうしたスタンスを貫いてきたからこそ次官にまで上り詰めたのであろう。
 では「何故今になって・・・?」という点である。
次官になって半年も経たない内に例の天下り事件が発覚、結局1月20日付けで文科省を退職することとなった。ここでまずM氏は、(天下りについては他省庁も沢山のケースがあるのに)何故わが省だけが・・、という割り切れない思いを抱いたとしても不思議ではない。そして(ご本人の発言によれば)9月に官房副長官からは出会い系バーへの通いを注意され、またほぼ同時期に官邸の関係者(補佐官や内閣府参与)から加計問題について圧力が加わったり、という不可思議な動きがあった、そのこととの関連を疑うこともあったであろう。だが傷を負って職を辞した身であり、そこは気持ちの整理という段階に留まっていたと思われる。
 ところが5月になって突然加計案件についての朝日のスクープが出た。そしてここで引用されている文書は自分が保管していたものを同じもの。にも関わらず官房長官が定例記者会見で、全否定の答え方をした。ここでM氏の反骨精神に火がついた、ということではなかろうか。
そして週刊文春の取材に応じ、更には大々的に記者会見で思いをぶちまけることとなった、ということではないかと推測する。
 こうした推測には実は大きな前提がある。それはM氏が、生まれも育ちも大変麗しいものであり、であれば通常は、例え自分が意の染まぬ状況に追い込まれてもおかしな行動には向かわないだろう、と考えられるからである。このあたり、某官房長官とは心の動き方や頭の働き方が180度異なる、と言っても良いのではないだろうか。

文科省前川前次官の告発.。 論点その1: 「忖度」の構造。

 ここ数年体調不全でこのブログも休止していたが、ようやく再開が叶う。
そして目の前に大変な材料が転がってきた。
・・・前川前文科次官の突然の発言である。

 ついこないだまで森友事件があったが、前川「事件」は今の政権の「構造」、ひいてはこの国の問題というか特徴というか、そうしたものも含め、切り口が大変多いと感じる。

 ある物事について、「本当のこと」に迫るのは、多岐に渡る情報を収集し、それを分析した上で一つの「仮説」を立て、更にまた情報を収集し、その仮説に修正を加える、という手続きの連続が必要。その先に「本当のこと」が見えてくる。そして、それを「位置づける」という作業を終えると、この件は一件落着、となる。

 さてこの前川事件、まだまだ情報は不十分だしこの先また新たなものも出てくるであろうが、敢えて言うと、既にこの時点で「仮説」は比較的立て易いと考えるので、その線でこの議論の材料に富んだ「事件」を論じてみる。

 まず大前提として、前川氏(以下M氏とする)が記者会見やマスコミでしゃべっていることはほぼ100%本当のことである、という仮説を置く。ま、62歳だそうだから多少の記憶違いや勘違いはあろう。だがそれは枝葉末節の類と言ってよいので拘泥しない。

 話は突然変わるが、ヤクザというか暴力団というか、そういった組織を動かしている一つの大きな特徴は「忖度」で成り立っている、ということだ。事柄を単純化してみよう。
Aという組織の親分は、このところ自分の縄張り近くで伸してきたBという組織が気に入らない。あれこれの末にBの親分を抹殺してしまいたい、という考えに至る。彼は、絶対にBの親分を殺して来い、とは言わないであろう。ここは日本人であればすぐ納得できる筈。ではどうするか?幹部会でも非公式な食事会でもいいが、雑談風に「最近Bのあれは生意気だな。ほんと目障りだ」と言う。
同席した幹部は、親分はBの親分を殺れ、と言いたいわけだな、と受け取り、懲役に行く頃合の組員に言う。「おい、親分がBのやつが目障りだと言うんだよな」と。
聞いた組員は、そうか、であればおれが殺ってやる。ムショに行っても当然面倒は見てもらえるだろうし、シャバに戻れば、そのことで幹部昇格は間違いない、と考えてBの親分を殺る。
この場合、Aの親分もその下の幹部も、殺人教唆で罪を問えるかというと問えないわけだ。

 翻ってこの国である。Aという首相が、毎日行うらしい官房正副長官とのミーティング、或いは首相補佐官とのミーティング、ま、なんでもいいが、例の加計の獣医学部新設の件、タイミングを見計らって「ぼくはあそこの社長とは30年来の付き合いでね、ま、知ってると思うけど。でこないだもメシ食ったんだけど、今回の特区での獣医学部新設、是非実現して、ささやかながらこの国に貢献したい、とか言ってたんだよね」としゃべる。あくまでも雑談風に、というのがキモである。
 ・・・聞いたほうはどうするか? 何もしない、動かない、という選択肢がないことは明白であろう。でここからの動き方は、知恵と経験でパターンが異なってくる。最も知恵のないのは、直接の当事者を呼んで、首相がこう言った、なんとかしろ、わかったな、もちろんこの件は絶対口外するなよ、と言う。ついでに、お前この件うまくやったら首相に言って確実に昇進させてもらうから、とかなんとか。最も巧妙なのは、そのへんの勘の鋭くかつ上昇志向の強いのをつかまえて、首相の意向が背後にあることをなんとなく、だが確実に「匂わせ」る。
ま、この二つの行動の間には微妙な差がある幾つかのパターンがあるであろう。
そして共通しているのは、首相の発言を受け止めて自分の職の範囲内で何か動けは間違いなく評価されるであろう、逆にここで動かない、もしくはドジ丸出しの動き方をすれば、「彼は何もわかっとらん」ということになり、その後自分の昇進はほぼ絶望となるであろう、という風に頭が回っていく、という点である。

・・・これが「忖度」の具体的な姿である。
何故こうしたことが、官であれ民であれごく普通に通用するか?と言えば、それは、同じ日本人同士で同じ日本語で物事を処理して行くからである。
とにかくなるべく争いごと、面倒なことを起こさないで一つのことを進めていくためにはどうするか?というところから自然に出てくる一つの行動様式と言ってよい。「空気を読む」とか「根回し」とか、みな同じ範疇に属する。
日本人は、数人、もしくはせいぜい10数人の組織だと、昼間でも夜の酒席でも結構カンカンガクガクの議論をする。だがそれ以上の大きな組織が関わる話になると、その場で議論をするなどという「ダサい」ことは一切忌避する。ま、大きな組織の場合は、まず数人の小さな単位で議論が行われ、上に行くときには、そういうことならしょうがないな、という形で意思統一がなされる、というわけである。

 今回の前川事件でも、M氏の発言から、やはりこの「忖度」の構図が明確に垣間見える。実際、組織で働く人たちは、この件での様々な報道に接して、ほぼ全員が「そういうことだったんだろうな」と推察している筈である。
 
 さて、そこで今回M氏は、現役の時にはそうした忖度の構造の中で行動していたわけだが故あって現役を退いた今、その忖度の事実を極力具体的に公表し、忖度させた大元を炙りだそうと動き出した、というわけである。

 ここからが「切り口」のその2である。

閑話休題:動物の数え方も、「何人」、としたらどうだろう・・。

以前NHKで、アフリカの旅番組をやっていたことがあった。
先進国のヒマな人があちこちに旅行して、沼にバスがはまって大変だった、とか、ラフティングでどうしたとかやっていたが、アフリカという地の現状を考えると気楽なもんだと思った。そして、でもこうやって何らかの形で現地にお金が落ちるなら、それもそれで良いのかもしれない、と思ったり。
そして、ウガンダチンパンジーに会うシーンがあった。1時間ほど森の中を歩いて、ようやく1匹のチンパンジーに会えた、とかなんとか。
ここでふと思った。
チンパ、「1匹」ではなく「一人」と呼んでみたらどうだ?「ようやく一人のチンパンジーと会えた」と。となると、何か付き合い方というか感じ方というか、全てが変わるような気がしたのだが・・。
でもってうちにも2匹の犬がいる。動物の擬人化というのは古くからあるし、よく言われるように、ペットなんかは「家族の一員」の感はある。が、でも「何匹」と呼んでいる限りは、やはり奥底には、こいつらは人間じゃないしなー、というのがあるかもしれないなー。1匹は既に10年以上、もう1匹も一緒に暮らして5、6年。性格もほぼわかっている(ような気がする)んだけど、ま、やはり根源的なところで人間とは異なる、というか・・・。
でもここで、うちの犬達を呼ぶときに、1匹ではなく「一人」、と呼ぶようにしたらどうなるんだろう。「あの人はこんな所でオシッコをして、ほんとにもう!」とか、「この人は、1日中、食い物のことしか考えていない」とか。
ま、お犬様は、チンパンジーと比べると人間どもと距離は遠くなるから無理感もあるが、それでも何か新しい発見があるかもしれぬ。もっとも彼らにとってみれば、有難いことになるかもしれないし、逆に迷惑なことになることもあるんだろうが・・・。ま、うちの犬だけでなく、時々庭に飛んでくる色々な鳥なんかも、「お、今日はあの人はこの時間に来てエサをつついているな」とか、「いつもは二人で来るのに、今日は珍しく一人か」とか。
・・・とか考えてくると、「擬人化」への近道は、意外とその数の数え方なんかにあるのかもしれない。
でもって、擬人化が進むと、世の中はいろんな変わった人ばかり、ということになる。ま、「変わった」というのは、姿・形とか習性とか寿命とかになるのだが。で、更に、人間は神様との距離が近くなったり遠くなったりするけれども、生けとし生きるものを全て擬人化した後に、人間と同様に神様だという考えに至ると、「八百万の神」という発想が出てくる、ということなのかもしれんなー。でも、これって、日本人に特有なことらしいし。
・・・とかあれこれ考えたアフリカ関連のテレビ番組であった。

いやな感じの正体・・・東大石川健治教授の「投稿」。

昨日の朝日新聞に、「いやな感じの正体」と題する「投稿」記事が載っている。書き手は東大の憲法学の教授の石川健治という人だ。
最近はやりの「○○の正体」という見出しに惹かれ、真面目に読んだ。
中身は、憲法学者としての、正にいま強行されんとする集団的自衛権解釈改憲閣議決定への批判である。
文中に聞きなれない語句が二つあった。「他事考慮」と「レファレンダム」である。
しょうがないのでとりあえずネットで意味を求めた。前者については、「裁量判断において、本来考慮しなければならないことを考慮せずあるいはことさら無視し、またはその逆に、本来考慮すべきでないもの考慮しあるいは過重に評価すること」らしい。後者は、「憲法の改正,法律の制定,重要案件の議決などについて,立法機関の議決をもって最終決定とせず,有権者の投票によって最終決定とする国民投票ないし住民投票の制度」とのこと。
・・・なるほど。
ということは二つとも法律用語ということだ。でもって、ん十年前に法学徒であった自分が初耳ということは、その間にメジャーになった用語なのか不真面目な法学徒が知らなかっただけなのか、ま、多分後者だろう。
ところで論旨自体だが、格調が高くかなり高度な内容である。多分そこそこの知的レベルの読者か現在法律や政治学を教える人達かそれを学ぶ学生、といった層しか理解できないのではないか?
となると、石川健治という気鋭の憲法学者は、一体誰をこの投稿文の読者として想定していたのか?という疑問が生じる。
発行部数数百万部らしい大新聞に投稿するということは、本来、極力多数の人に自分の主張を理解して欲しい、という動機がある筈である。
ところが内容といい論の進め方といい、他の文科系の学者や学徒を頭に描いている印象を受ける「投稿」になっているわけだ。
むかし会社の偉い人が常々言っていた。「難しいことはわかり易く わかり易いことは丁寧に」と。
・・・ということで、論旨には同意できる部分は多いのであるが、投稿する方もそれを掲載する方も、会社員的にはもう少し「効果」を考えたら?と言いたいのである。